普通 / 特別 の話。

普通ってなんだ。

毎日、多くの人が、常識的に、その場にある/いる/有り得る ことが普通なのか。普遍的、とかっていう言葉もあるしね。そうなのかもしれない。

よく「普通であることが、こんなに素晴らしくて、儚かったんだ」みたいな懐古も見る。その通りだと思う。常であることは難しい。維持するということは、留まることではなく、下りエスカレーターを上り続けることだから。

特別ってなんだ。

いつもあるものとは違う、突然、なにか目新しかったり、変化が生まれた瞬間だったり。実は、普通という条件より「特別な瞬間」は生まれやすいのかもしれない。

別に、特別である必要は無い。「普通」という世界から、わざと目立って生きる必要などないのだ。でも特別扱いされると、何故か嬉しかったり、何故か恨めしかったり、何故か苦しかったりするのだ。

なぜなのだ。

人は、特別を好む。なのに、普通であることが難しいなどと言う。普通がいちばんだと言ってみたりする。これは矛盾だ。何が言いたいんだ。

私は胸を張っていくぞ、自分の好きな道を進むと。それが、普通だろうが、特別だろうが、わたしのモノサシで測り続けるから。

わたしにとっての「普通」「特別」

もちろん、一般的に、モラル的に。わかるよ。だって、非難はされたくない。苦しみたくない。人間だもの。そこをはみ出ないくらいの感覚で。

私の信じるわたしでいたいのだ。

でも。ごめんなさい。だれかの特別でありたいって思うよ。承認 / 肯定 してくれよ。

気持ちに余裕がない話。

結構毎日がんばってブログ更新してたんですけど、突然アクセス増えたり、見てる人がいるってわかると焦りますね。なんかいい話ないかな、って探してる時点で、なんか違うなって思って更新するのやめました。

このブログは、友人の誰にも教えてないので、書いてるうえでテーマがあって。

本当のじぶんってなんだろう

重い。笑

でも、これは生きていたら永遠のテーマというか、考えずにはいられないし。誰かに共感してもらいたい、って気持ちだったらもっとライトで、わかりやすくて、万人に受け入れてもらえるようなこと書くんですけど、残念ながらわたしはそんなにやさしく、利口で、穏やかな人間じゃないので(笑)

思ってることをちゃんと書きとどめるというプロセスに意味があって、思っていたことをそのまま書く事に意味があって、その感情を忘れないでアウトプットしつづけることに意味があるって思うのです。

気持ちに余裕がないのは、たぶん他の事柄に余裕がなくって。例えば、お金に余裕がないとか。時間に余裕がないとか。心配してることがいっぱいあって、それが心につっかえてるとか。たぶんそういうこと。

やるべきことをこなせるような、要領のよくて、パワフルな人間になりたい

 

さて。このブログ、だいたいが欲望で締めていますが、その欲を満たせるような努力をしてないってところが、本当に私らしくてしにたくなりますね。笑

今日もあとすこしがんばろ・・・

気持ちの整理が付けられない話。

 

 昨日の話の続き、にもなるのかなあ。

 

over-thefuture.hateblo.jp

 

もやもやした気持ちが、なかなか消えなくて、ずっともやもやいらいらしている。自分に自信ないっていう話もそうだけど、このツイートを見てハッとしたのは、きっと今の自分だからじゃなくて、これまでの自分もきっとそうだったなって思ったから。

 

 

 

モヤッとした気持ちって、ちょっとお金使ったりとか、自堕落な時間過ごしてみたりとか、【何かを浪費する作業】によって、解消されたりするじゃないですか。

わたしは今日どちらもやったのに、さらに悲しみが生まれてしまって、もうよくわからない感情。「こんなの、はじめて、、、!」って感じでした(笑)

話は逸れますが、体調不良によるリスケって、その本人は真剣にしんどいんでしょうけど、相手からしてみたらただの喪失感しか残らないなって。これは、仕事でも、プライベートでもそうだし、どんなに仲の良い相手だってそういう感情が芽生える。(リスケジュールのこと、最近リスケっていう略し方するみたいだけど、いまいち私は腑に落ちてない笑)

それを、自分の中で処理/消化できない時点で、「あー、なんて自分は小さくて自己中心なんだ」なんて考えるもんだからまた、自責スパイラル(笑)

場所とか、人間関係とかもそうだけど、『感情』においてもそういうことっていえるかなあと。

【頑張っても無理な時は、忘れる】

それが出来ないから、昨日から困ってるんですけどね、出来てたらこまってないですよね。でも、ブログに書いて、言葉にして、アウトプットして、思い込ませて、なんとか生きながらえてる~~~。

すこしてもやらねばね、、やる事大事、だいじ。もやもやすることがすべて悪い事ではないよね。いまやらねばいけないことは、ぽいっと捨てられるわけじゃないけど、自分を責める気持ちは捨ててもいいよね。きっと。

 

すごく支離滅裂だけど、じぶんを慰めるためにこうでもしないと、ね。。。

自分に自信が無い話。

 

 

あー。こういう事だったのかって。

私に限った話ではないと思うのですが、自分に当てはまる状況を言葉にされてるのを見ると、とても安心します。納得して、心が軽くなります。そういう言葉を無意識に探しているような気がします。

まさに、最近の状態がこれで。就活の時もそうでしたが、本当にやらなきゃいけない事があっても、逃げる。逃げた事で自分を責めるけど、余計にその一番やらなきゃいけない事から逃げる。自責スパイラル(笑)

そこで、もやもやしたり、いらいらしたりしてもしょうがないんですよね。だって結局は自分がいけないわけだから。

問題がわかってる時点で、ダメだと認めて、ちゃんとやる時間決めればいいんですよね。それが出来てないから責めてるんですけどね。笑

気にしすぎないことと、自分に厳しく甘くっていう緩急をしっかりつけられるようになりたいなあ。

SNS疲れの話

べつに、もうネットの世界で誰かと繋がってなくてもいいかなあって

誰かのpost見て一喜一憂して、自分がpostするのにも気疲れして、もう要らないかなって。でも、誰かと繋がってないと不安になったりするし、1人だと嫌なことも考えるし、家は生きづらいし。

愚痴くらい吐かせてくれよ、って思うけどプライベートや考えが筒抜けなのも考えもので。

だって、芸能人のSNSは、テレビの向こうにいる憧れの人の日常が知れる素晴らしいツールだと思うけど、一般人の私たちがやってるSNSは知らない人に身バレしたくないという理由で鍵をかけてる以上、みんな閲覧者は友達なわけで、いいねが欲しくて『フォトジェニック』で『カラフル』で『見てて飽きないもの』をpostする。周りに構って欲しくて。自己を肯定して欲しくて。

なんか、もうそういうのいいやって思った。

SNSで、性格や人と成りまで勝手に判断されたらたまったもんじゃないわ。写真と、言葉の羅列を見て、相手の何がわかるっていうの。

自己を肯定されたら、そりゃ嬉しい。いいねが貰えたら、あーみんな見てくれてるんだなって思う。けど、人の為に生きてるわけじゃない。SNSっていう外と繋がるツールである必要はなかった。自分の気持ちを書き留めておく、読み返せるものがあればよかった。それがブログで、だんだんtwitterFacebookといった、より周りとの関係を築けるものに変化していった。

たしかにSNSは便利だ。人を集めたり、意見を集めたり、情報を発信したり。

でも、日常を綺麗に飾って、写真立てに入れて、はーい!わたしの毎日です!見てください!は何か違う気がしてきた。

自分の信じる道を、周りに惑わされずに歩いていきたい。

里帰りした話

いろいろ事情があって、ばーばの家ではなく大叔母さんちにお世話になってます。親戚付き合いのない我が家だから、おばさんちに妹夫婦が来たり、姪っ子親子が来たりと、にぎやかなこの家がうらやましい。
人付き合いって難しいのよ。
わたしが人付き合い好きでお節介焼きなのは、両親の影響。反面教師。両親は、人に関心がない人達だった。それを見て私は育ったから、きっとお節介も焼くし、話するのも大好きだったんだと思う
親戚の話、兄弟の話、旦那さんの話。
お風呂上がってから2時間くらいずっと人付き合いの話。他人事じゃだめなのよ、なにごとも。周りに人がいて、困ってたら助けたくなるのは、きっと誰でもそうなんだけど、その気持ちがすこし強いだけだったんだって。
新庄に久しぶりにちゃんと来て思ったのは、わたしの原点が、新庄にはたくさんあるってこと。何もなくて不便だけど、たくさんの気持ちに恵まれてる。不便ってわるいことじゃない
あとねー、ほんとおばさん優しくて面白くて競馬好きでおしゃべりですき。ほんとこの人がおばあちゃんだったらなって思うくらいすき
この人亡くなったらわたし本当にショックで立ち直れないくらいすき
突然両親が亡くなったら、ってはなししてたけど、いくら憎まれててもつらいものはつらいよなあ。血の繋がりって憎めないよなあ

いいものはいい、いやなものはいや、
ってちゃんと言えないとだめだなあ

違和感。

好きだし、なんでも話せるし、お互いクズすぎて価値観も似てる。

なのに、何時間も話してると抱く、この違和感と嫌悪感はなんだろう。探りながら話す感じはなんだろう

仲いいはずなのに、距離を感じるこの気持ちはなんだろう